大地の再生に関わり初めてすぐぐらいに買って放置していた「風土 – 人間学的考察 by 和辻哲郎」という本。此度前職のゆの里で環境シンポジウムが行われる運びとなりまして、風土学というのを大地の再生で提唱しています。読むなら今かなと。
ざっと哲学すぎて読むのに体力いるなーと思ってました。いざ読んでみても大変なので断片的に所感を。
人間存在において最も手近に見いだされる物が道具であるという洞察はまことに教うるところの多いものである。元来「道具」とは本質的には「..・・・するためのもの」である。たとえば槌は「打つためのもの」であり靴は「はくためのもの」である。ところでこの「・・・・・するためのもの」は、そのものが使用せられる目当てとしての「何のために」に対して、内在的な関係を持っている。たとえば槌は靴を作るための道具である。
しかしまた靴も歩くための道具である。かく「何のため」を常に指示しつつ「するためのもの」であるところに、すなわち「ための連関」であるところに、道具の本質的な構造がある。そうして「ための連関」は人間の存在から出てくるのである。ところで我々はこのような「ための連関」を開始せしめる根元に人間存在の風土的規定を見いださざるを得ない。靴は歩くための道具であるが、しかし多くの人間はこの道具なくして歩くことができた。靴を必要としたのは寒さや暑さである。着物は着るためのものであるが、着るのはまず第一に寒さを防ぐためである。だから「ための連関」はその終局するところに風土的な自己了解を控えていると言わなくてはならぬ。たとえば我々は寒さや暑さにおいて自己を了解するとともに自己の自由にもとづいて「防ぐため」という一定の方向を取る。寒さ暑さの契機なしに全然自発的に着物を作り出すのではない。従って「防ぐために」から「何をもって」に向かって己れを指し示すときに、すでにそこに風土的な自己了解が顕わにされるのである。
農業や環境再生、庭のお仕事などをしているとすごく感じるのがやはり土地という感覚は一度たりとも消えないなーと。どの野菜を作付けするのか、その地域で盛んな農産物はなにか、水田と畑だとどちらが多いのかとか。
風土という言葉抜きにしてそもそも自然というのが成り立っていないなと。だから何を決めるにも先に風土的な自己了解があるという感覚があります。
となるとどういう植物が育つのか、湿度条件や年間の気温が違えば微生物(カビ・発酵)が違ってくる。そうなると必然的に食事に影響してくる。
最近聞いた話だと、全く皮肉はなしに「イギリスのご飯はおいしくないという定説」をイギリスによく行く日本人になぜかと伺うと、「日昼夜の温度さが少ない」とのことすなわち植物の種類も少なく主食がいもばかりだから。あと食事にあまり興味がないという、だから彼自身も日本にいると、日本食は本当においしいと。みんなが口を揃えている理由がこのとき納得できました。
昔から和食は旬のものを食べると体に良いとされ(薬膳とかもそうやね)、日本は季節とともに移り変わる多種多様な植物をその時期に合わせて食べることが健康にもよいと考えられてきました。
逆説的に言えば、保存という概念がなければそのときにあるものを食べなければ人間は絶滅していたと考えると、風土に合わせて人間が進化してきたと言えますね。
衣食住に関して言えば風土があってのことだというのは明白なので、環境がその場を作っているということがここからもわかりますね。
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